誰よりも戦争に反対した男、
山本五十六

アメリカとの国力の違いをよく知っていたために、誰よりも戦争に反対していた山本五十六。
真珠湾攻撃までの苦悩を辿る

戦争について考える

山本五十六と真珠湾攻撃 その4

海軍の中で その2

昭和(大戦前)

連合艦隊司令長官 その2

三国同盟の締結、日本海軍の海南島占領や北部仏印進駐などによって、日本と米国・英国の関係は急速に悪化していきました。当時の総理大臣の近衛文麿『近衛日記』によると「余は日米戦争の場合、(山本)大将の見込みの如何を問ふた処、それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」と発言しています。井上成美は戦後この時の山本の発言について「優柔不断な近衛さんに、海軍は取りあえず1年だけでも戦えると間違った判断をさせてしまった。はっきりと、『海軍は(戦争を)やれません。戦えば必ず負けます』と言った方が、戦争を回避出来たかも知れない」と述べています。

山本は嶋田繁太郎海軍大将に宛てた手紙で近衛との面会について「随分と人を馬鹿にしたる如き口吻にて現海軍の大臣と次官とに対し不平を言はれたり 是等の言分は近衛公の常習にて驚くに足らず。要するに近衛公や松岡外相等に信頼して海軍が足を地からはなす事は危険千万にして誠に 陛下に対し奉り申訳なき事なりとの感を深く致候御参考迄」と論じています。同時期に、山本を訪問した反町英一に、秋には引退して故郷に戻りたいと話をしています。11月10日の宮城で行われた紀元二千六百年記念行事には、蒋介石率いる中国軍から宮城を空爆されるのを防ぐとの理由で参加していません。

五十六に学ぶ

1941年(昭和16年)1月7日、及川古志郎海軍大臣への書簡「戦備ニ関スル意見」にての中で『(真珠湾攻撃構想は)既に昨年11月下旬、一応口頭にて進言せる所と概ね重複す』とあります。山本はすでに真珠湾攻撃を検討していることがわかります。また山本は及川への書簡で自分を第一航空艦隊司令長官に格下げして直接指揮させてほしいと希望して、空母喪失と引き換えに戦争を一日で終える気構えも示し、連合艦隊司令長官には米内光政を期待しています。書状には「大臣一人限御含迄」となっていて、伏見宮軍令部総長には伏せていました。堀への手紙によると、及川は米内連合艦隊長官人事に同意していますが、井上成美の反対で潰されたといいます。

1941年1月14日ごろに山本は、第十一航空艦隊参謀長大西瀧治郎少将へ手紙を送っています。1月26日、27日ごろ大西が長門の山本を訪ねてきました。大西への手紙の要旨は「日米開戦は国際情勢いかんであり、そのときは思い切った戦法とらねば勝ちを制しえない。海戦劈頭にハワイ方面の米艦隊主力に全航空攻撃をし当分西太平洋進行を不可能にする。目標の米艦隊群への攻撃は片道の雷撃攻撃とし自ら指揮し全力でやるつもりなので研究を求む。」といったものでした。大西は源田実第一航空戦隊参謀に作戦計画案を早急に作るように依頼して、それに大西が手を加えて作案し3月初旬ごろ山本のもとへ提出されました。山本は真珠湾の水深の関係から雷撃ができなければ効果も期待することはできないので、空襲作戦は断念するつもりでした。しかし不可能ではないと判断されたために戦艦に対し水平爆撃と雷撃を併用する案へとなりました。

4月には、地方長官会議で東京に集まった全国道府県長官・知事を旗艦「長門」に招き、「イザ戦う時には水平線の彼方に敵艦隊の煙が見える前に、撃滅してしまう決心である」「私はつねに艦隊の最先頭の旗艦の艦橋にあって指揮しています。これは日本海軍の伝統なのです」と演説して、国民に向けた最後の言葉となっています。6月に、自らを「昭和の相模太郎(北条時宗)」になぞらえて、「雄大なるドイツの大作戦、ああ壮なる哉」と賞賛しています。9月12日、再び近衛首相に日米戦の見通しについて語り、前年9月の会見と同様内容を答申しながら、戦争になった場合には山本自らが飛行機や潜水艦に乗って1年から1年半は存分に暴れてみせると述べています。

連合艦隊の各艦隊長官の人事は、海軍大臣と連合艦隊司令長官の意向が反映されて、山本は第一航空艦隊の司令官として南雲(兵学校36期)と小沢治三郎(兵学校37期)を候補にかけました。小沢より扱いやすい南雲を選び、水雷戦術専門の南雲の補佐として航空専門家の草鹿龍之介や源田実を補佐としてつけました。しかし山本は、同期の親友堀悌吉中将を予備役に軍令部で追いやった南雲忠一中将に対しては、良い印象を持っていないため、南雲が第一航空艦隊司令長官に任命された時には「南雲の水雷屋が」と悪態をついています。1941年(昭和16年)10月22日第一航空艦隊から長官南雲忠一、参謀長草鹿龍之介を更迭し小沢治三郎を任命するように宇垣から進言があり山本は同意していますが、実現はされていません。

南雲機動部隊参謀長の任についていた草鹿龍之介は、真珠湾攻撃に反対の立場でした。そこで大西瀧治郎少将と相談の上、戦艦「長門」にいた山本長官を訪れて反対論を展開しました。しかし山本は2人に「ハワイ奇襲作戦は断行する。無理があろうが積極的考えで準備をしてほしい。僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからってそう投機的と言わんでくれ、君たちにも一理あるが僕のも研究してほしい」と話しています。大西は「草鹿君、長官がああまで仰るなら、一つまかせてみようじゃないか」と前言を覆し、唖然とする草鹿を横目にして大西と山本はポーカーを始めました。山本は草鹿を「長門」の舷門まで見送って、「真珠湾攻撃は、最高指揮官たる私の信念だ。どうか私の信念を実現することに全力を尽くしてくれ」とを草鹿の肩を叩いています。

戦争を忘れない為に
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1941年9月に海軍大学校で行われた真珠湾攻撃図上演習では、南雲機動部隊は大戦果をあげると同時に空母3隻が沈没・1隻が大破しました。山本は南雲の肩を叩いて「ああいうことは人によっていろいろ意見があるからね、かならず起るということはないよ」と語りました。宇垣連合艦隊参謀長によって撃沈判定は取り消されて演習を続けていきました。

10月12日、近衛首相私邸で荻外荘会談が行われて、及川と海軍首脳は優柔不断な応答に終始します。山本は「乃公が当局者であったら、海軍は正直に米国に対し最後の勝利はないというネ」と批判しています。10月19日、山本は軍令部に黒島亀人連合艦隊先任参謀を派遣して「真珠湾攻撃が認可されなければ、連合艦隊長官を辞任する」と主張して、作戦を認可させています。また嶋田繁太郎海軍大臣に対する10月24日の書簡で「開戦劈頭有力な航空兵力によって敵本営に斬り込み、米海軍をして物心ともに当分起ち難いまでの痛撃を加えるほかなしと考えることに立ち入った次第です」と述べて、山本の決意を知った嶋田はハワイ奇襲攻撃作戦に許可を出しています。黒島亀人ら幕僚によると、山本はこの作戦採用なければ長官の職責を遂行する自信がないから辞任する、この作戦に失敗すれば戦争は終わりだと漏らしていたといいます。

しかし、南方での持久作戦を推奨する軍令部と、伝統的な洋上艦隊決戦を重視する多くの海軍軍人と山本の間には大きな溝がありました。また山本の心中は、余生を故郷長岡で過ごしたいという思いと、戦争になれば活躍して『さすがは五十サダテガンニ』と言われる事はしたいという思いとの間で揺れていました。11月下旬から12月旬にかけて、家族や親しい人々にそれとなく別れを告げています。11月3日に嶋田海軍大臣と面会して、「長門」に戻ったあと宇垣らを連れて7日から11日まで再び東京へ出張して、軍令部や陸軍と作戦の打ち合わせを行っています。13日には、呉で各艦隊指揮官に大海令第一号を伝え、X時が12月8日であることを明かしています。1941年12月2日上京した際、山本は軍令部に事前の宣戦布告を確認しています。12月3日に、天皇に拝謁して勅語を賜り城英一郎侍従武官が山本の奉答文を届けると、天皇は三度読み返して御満足の様子に拝しています。佐藤賢了によると山本は、御前会議に提出した資料のデータを書き変えています。実際の資料は戦争が不可能と判断せざるをえないものだったこともあり、問い詰められた岡敬純は「海軍の中で誰も山本に楯突く事はできない」と答えたといいます。

山本はハワイ空襲と関連して、ハワイ攻略を相談したこともありますが、ハワイには米海軍軍人の半数が存在したために捕虜にすれば勢力回復が困難と見ていたましたが、実行はしていません。真珠湾攻撃の目標決定は山本の意図でもある敵の主力機動部隊を壊滅させて戦意をくじく心理的効果と敵の機動力の喪失にありました。

そして、真珠湾攻撃が1941年(昭和16年)12月8日に行われました。

2013 誰よりも戦争に反対した男、山本五十六