誰よりも戦争に反対した男、
山本五十六

アメリカとの国力の違いをよく知っていたために、誰よりも戦争に反対していた山本五十六。
真珠湾攻撃までの苦悩を辿る

戦争について考える
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山本五十六と真珠湾攻撃 その1

彼の生い立ち

明治時代

1884年(明治17年)4月4日、新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町(現在の長岡市東坂之上町3丁目付近)で、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれました。その時の父親の年齢が56歳だったので「五十六(いそろく)」と名付けられました。海軍で五十六という名前の由来を聞かれると不機嫌そうになったいいます。父親も高齢でしたが、母親も45歳と高齢でした。五十六の子供時代は、幼い時からの負けず嫌い。小学生時代には「何でも食べるが鉛筆は無理だろう」とからかわれると、その場で鉛筆を食べだしたというほどの負けず嫌いでした。大人になってからの身長は1m60㎝で体重は65㎏とちょっと小太りの立派な体格でした。

長岡町立阪之上尋常小学校、旧制新潟県立長岡中学校卒業しました。中学生時代に10歳年長の甥の高野力が病死しました。両親の「五十六が高野力に代わって(立派な武士すなわち軍人になって)くれれば・・」という発言が、五十六のトラウマとなりました。それゆえ軍人を目指すことになり、既に「武士の家の子は武士になる」と語っていたといいます。五十六の兵学校志望は、父の妹が嫁いだ野村貞海軍少将から海軍の話をたびたび聞いていたのと、兵学校を目指しながらも病弱では無理と諦めて、結局病気で亡くなった高野力の影響が指摘されています。

1901年(明治34年)に海軍兵学校32期に200名中2番で入校しました。(留年した生徒が15名加わり、215名で教育開始)同期生には塩沢幸一、吉田善吾、嶋田繁太郎、堀悌吉などがいます。そして在学中に堀悌吉と親友になりました。

日露戦争中の1904年(明治37年)11月、海軍兵学校を192名中11番で卒業しました。(兵32期)卒業時には教官より「もっと喋れ」と注意されて、五十六自身も「温にして直」と戒めています。それから少尉候補生として練習艦「韓崎丸」に乗船しました。

1905年(明治38年)1月、少尉候補生のまま装甲巡洋艦「日進」配属となり、5月27日の日本海海戦に参加しています。この海戦で、左手の人差指と中指を欠損して、左大腿部に重傷を負っています。その原因は、公式記録と五十六本人の手紙によると「敵砲弾の炸裂」ですが、旧海軍関係者間からは「日進」の前部砲塔による砲身内早発である可能性が指摘されています。負傷時に着用していた軍服は、太平洋戦争勃発直前に山本から故郷の博物館に寄贈されました。重傷を負い、左腕を切断する可能性もありましたが回復しています。その後、防護巡洋艦「須磨」に5ヶ月、戦艦「鹿島」に5ヶ月、海防艦「見島」に4ヶ月、駆逐艦「陽炎」に4ヶ月と、各艦に勤務しています。。艦の勤務と並行して、海軍砲術学校普通科学生として16ヶ月間、海軍水雷学校普通科学生として4ヶ月の教育を受けています。海軍水雷学校を卒業してから、駆逐艦「春雨」、装甲巡洋艦「阿蘇」乗組みを経て三等巡洋艦(練習艦)「宗谷」に配属となりました。「宗谷」では37期少尉候補生訓練を行って、井上成美、草鹿任一、小沢治三郎、鮫島具重を指導しています。1909年(明治42年)にアメリカに駐在して、1911年(明治44年)に海軍大学校乙種学生を卒業すると海軍砲術学校と海軍経理学校の教官になり、同僚の米内光政と盟友になりました。井上成美(生徒)によると山本五十六は兵器学講座を担当していたそうです。

五十六に学ぶ

大正時代

1913年(大正2年)両親が死去しました。五十六は母親を看病するために夏季休暇を利用しています。同年12月に、海軍大学校に入学しています。在学中の1915年(大正4年)牧野忠篤子爵の口添えで、旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続することになり、名前も高野五十六から山本五十六となりました。

1916年(大正5年)12月、海軍大学校を卒業しました。翌年の大正6年1月腸チフスにかかり、療養中に発症した虫垂炎のため生命の危険に陥りましたが、大手術の末に回復して、故郷長岡で翌年6月頃まで休養することになりました。その時には姪で看護師の高野京が看病をしています。1917年(大正6年)7月、海軍省軍務局員を務めたのちに、海軍教育本部第一勤務となりました。この頃に、友人から紹介された三橋礼子に一目惚れをして、見合いを経て8月31日に結婚しました。

1919年(大正8年)4月5日にアメリカに駐在して、ハーバード大学に留学をしました。(1919年~1921年5月5日)。米国の油田や自動車産業と飛行機産業に強い印象を受けたのはこの留学時代です。日本では専売指定されている砂糖と塩が、両方ともプラントで大量生産されて大量消費されていることをワシントンの喫茶店で身をもって知ることになり、日本とアメリカとの物資の圧倒的な差に大きなショックを受けることになりました。それから後に、軍縮会議出席のため渡米中に山本がコーヒーに多量の砂糖を入れて飲むのを見た同席者が「ずいぶん甘党ですね」と声をかけると、「できるだけ(仮想敵の)アメリカの物資を使ってやるんだ」と冗談で答えています。駐米海軍武官上田良武大佐(海軍航空開発の第一人者)の指導と影響によって、航空機に着目するきっかけになった可能性があります。

1921年(大正10年)7月19日に日本へ帰国してから、軽巡洋艦「北上」副長、続いて海軍大学校教官(軍政学担当)に転じています。それから1年後、海軍大学校教頭に山本英輔が着任し山本五十六の航空機観に影響を与えることになりました。1922年(大正11年)、井出謙治大将と共に欧州・米国を視察しています。ロンドン滞在中には、関東大震災が発生すると、山本は動揺する周囲に対して「日本人は偉大な民族であり、前より立派に復興する」と励ましています。

海軍省副官または元帥副官の話が持ち込まれていましたが、山本五十六自身の希望と、山本英輔海軍中将の推薦によって、砲術から航空へ転科します。1924年(大正13年)9月、霞ヶ浦航空隊付、12月に教頭兼副長になりました。山本は三和義勇(副長付)から航空機の操縦を学ぶことになり、後に日本海軍の航空発展に深く関与するようになりました。

山本はまず教頭兼副長を、副長兼教頭に改めることになりました。三和に「当隊の軍紀風紀を刷新し遅刻、脱営者を皆無にするから補助しろ」と言っています。また壇上で「下士官、兵にして頭髪を伸ばしている者はみんな切れ一週間の猶予をやる」と指示しました。三和義勇によると、山本は脱営者の見回りのため自身で率先して巡検していたといいます。 1925年(大正14年)12月、駐米大使館付武官となり、再び米国へと滞在することになりました。山本の航空隊在任は1年3ヶ月でしたが、「天洋丸」に乗船して米国に向う山本の頭上を、航空隊の部下達が編隊を組んで見送りました。

戦争を忘れない為に
2013 誰よりも戦争に反対した男、山本五十六