誰よりも戦争に反対した男、
山本五十六

アメリカとの国力の違いをよく知っていたために、誰よりも戦争に反対していた山本五十六。
真珠湾攻撃までの苦悩を辿る

戦争について考える

真珠湾攻撃後の戦局 その2

ミッドウェイ海戦 その2

山本五十六は機動部隊同士の戦いの最中に何をしていたかというと、渡辺安次参謀(映画では吉田栄作演じる三宅義勇作参謀)と将棋をさしていました。空母が撃沈されていく報告を聞きながら、「ほう、またやられたか」とだけ言ったといいます。指揮官として部下の動揺を拡大しないために、わざと平静をよそおっていたかどうかは分かりませんが、さすがに将棋を指す手は止まったそうです。

日本艦隊は空母を全て失いましたが、戦艦11隻が無傷でした。黒島参謀が夜戦による砲撃戦に持ち込むように進言しますが、制空権を失った戦艦が無力であるということを理解していた山本五十六は「陛下には私がお詫びする」と言い撤退を決断しました。冷静な手腕を発揮して、事後処理に努めたのは宇垣参謀長です。

一般的な戦術論をいうならば、戦力は集中投入すべきが戦術論の王道です。逐次投入は下策、とされることが多いのですが、このミッドウェイ海戦においては逐次投入に軍配が上がることになりました。それは、航空機という飛び道具と可燃物を満載している空母は、攻撃力は強大ですが防御する力は脆弱だからです。

そして海軍はこの敗戦を秘匿します。そして、大本営はミッドウェイ海戦勝利という嘘を発表しました。そして新聞は大本営発表をそのまま報道します。映画の中でダンサーの神埼芳江(田中麗奈)が、嘘の勝利に熱狂していますが、実際の日本も国民は戦局の真実と事実を知らないまま戦争を続けていくのでした。

五十六に学ぶ

戦争の終わりへと・・

ミッドウェイ後の戦局

ミッドウェイ海戦から後に、日米の主戦場はソロモン諸島へと移りました。日本はハワイ方面から見ると、オーストラリアの手前にあたるソロモン諸島を押さえることによって、アメリカとオーストラリアを遮断して米軍からの反攻を防ごうとしたからです。しかし、もちろんアメリカ側もこれに対応して、ガダルカナル島では日米陸上部隊が死闘を繰り広げることになり、周辺海域では海上戦が頻発していきました。

ソロモン諸島では、連日激しい航空戦が繰り広げられていきました。それは消耗戦の様相にもなっていました。そしてこの消耗戦は、航空機の生産能力がアメリカに著しく劣る日本にとってはかなり苦しい戦いとなりました。熟練した搭乗員も次々と戦死していき、搭乗員の技量は当然ながら低下していきました。映画の中で、零戦搭乗員の牧野幸一(五十嵐隼士)が本編のストーリーとは関係のない空戦で命を落とすシーンは、熟練搭乗員の消耗を端的に表現しています。

ガダルカナル島での戦局は、一木支隊・川口支隊などが逐次投入されていきますが、次々に全滅していき、多数の戦死者を出していきました。そして昭和18年(1943年)2月、ついに撤退が決断されることになり、駆逐艦を使った陸上部隊撤収作戦が行われました。映画ではカドクラという指揮官が戦死していますが、実際は撤退はアメリカ軍に気付かれることなくほぼ成功ししています。

大本営は撤退したことを「転進」、つまり目的を達成して他方面に進む、という言葉を使って事実上の撤退を誤魔化しました。東京日報の宗像主幹(香川照之)は、この戦争が負け戦になっていることにに薄々気づいていますが、新聞の使命は国民の戦意を落とさないこととして、大本営発表をそのまま垂れ流すように報道し続けていきますが、実際のところは、この時期の新聞は世論を煽るということよりも、軍部からの規制と検閲がかなり厳しくなっていたため、軍部の指示通りの報道しかできなくなっていたようです。

ニューギニア島でも日本軍部隊の玉砕が相次いでいきますが、日本軍はラバウル周辺に航空兵力を集めてその兵力を集中運用する「い」号作戦によって事態の打開を図ります。山本五十六は自ら陣頭指揮を取るために、トラックからラバウルへと進出していきました。山本五十六はマリアナ諸島まで戦線を縮小して講和する考えを持っていましたが、この考えはあくまでも個人的な考えで、海軍としての戦略ではありませんでした。映画の名中で、ラバウルに宇垣参謀長たちが山本五十六の部屋を訪ねて宴会をするシーンがありますが、当初は確執のあった2人の関係ですがこの頃には改善されていたと思われます。

4月7日から実施された「い」号作戦は一応の成功を収めることになり、山本五十六自らがショートランド方面の各前線部隊に視察と激励に行くことになりました。しかしこの時には各部隊に暗号で送られた視察スケジュールはアメリカ軍によって全て解読されていました。その一方で日本軍は、このとき暗号を変更したばかりだったので、まさかアメリカ軍側に解読されているとは気付いていませんでした。たとえそれを差し引いても、この空域はまさしく最前線。頻繁に航空戦が発生していたこともあり、視察を行うことはかなり危険を伴うことだったのは、視察に反対した幕僚だけではなく山本五十六自身もよく知っていたはずです。

山本五十六の最後

山本長官の乗った一式陸上攻撃機(一式陸攻)2機と護衛の零戦6機がラバウルを出発します。そして、ブーゲンビル島上空に差し掛かったときに、米陸軍戦闘機P-38(ライトニング)16機の待ち伏せ攻撃を受けました。零戦は必死の護衛でP-38の1機を撃墜しましたが、P-38の攻撃は一式陸攻に集中しました。一式陸攻は2機とも撃墜されて、1番機に搭乗していた山本長官以下11名は全員戦死しました。また、2番機には宇垣参謀長が搭乗していましたが、宇垣参謀長は重傷を負いながらも一命を取り留めました。 (宇垣は山本の遺骨と共に、戦艦「武蔵」で内地に帰還し、療養します)

ブーゲンビル島のジャングルに墜落した一式陸上攻撃機は現地守備隊によって発見されて、山本五十六の遺体は現地で荼毘に付されました。映画の中では米軍機の機銃が当たって戦死という設定になっていますが、実際は山本五十六の遺体は、他の搭乗者よりも損傷と腐敗が少なかったこともあり、墜落後もしばらく生きていたという説がありました。実際のところ、本当の最期は現在も不明です。

山本五十六の遺骨はトラック諸島に一旦運ばれて、その後戦艦武蔵によって本土へと持ち帰られました。山本五十六の死は1ヶ月以上秘匿されて、5月21日の大本営発表で公表されました。そして6月5日に国葬が行われました。その国葬委員長には米内光政が勤めています。

撃墜された山本長官機は、戦後永らく墜落地点のジャングルに放置されていましたが、平成元年(1989年)にパプアニューギニア政府の許可を得て左翼部分と山本五十六が座っていた座席が日本に持ち帰られました。これらは新潟県の山本五十六記念館に展示されています。また、オーストラリアのキャンベラのオーストラリア戦争記念館にも部品の一部が展示されています。

昭和19年(1944年)米内光政が現役復帰して海軍大臣に就任すると、井上成美は海軍次官となりました。絶対国防圏は破られて戦局はもはや絶望的となる中で、陸軍を中心として本土決戦が叫ばれ始めていました。このような状況の中で、井上次官は終戦するための工作に奔走することになり、始めてしまった戦争を終わらせるために尽力しました。

そして終戦後には、東京日報が手のひらを返したように民主化を叫んでいる有様などとても無責任なマスコミの姿勢が風刺的に映画の中で描かれています。

戦争を忘れない為に
2013 誰よりも戦争に反対した男、山本五十六