誰よりも戦争に反対した男、
山本五十六

アメリカとの国力の違いをよく知っていたために、誰よりも戦争に反対していた山本五十六。
真珠湾攻撃までの苦悩を辿る

戦争について考える
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真珠湾攻撃後の戦局 その1

ミッドウェイ島攻略 その2

映画で、宇垣纏参謀長(中村育二)が「敵空母が出てきても恐れるに足らん」と敵を見くびる発言をして、山本五十六にたしなめられ言葉に詰まるという場面がありますが、過去に三国同盟に反対していた立ち場から賛成へと回ったこともあり、宇垣参謀長と山本五十六の間柄は不和だったとされています。宇垣参謀長が米空母を軽視した理由には、米空母「ヨークタウン」が、1週間前に珊瑚海海戦で被弾して自力航行不能になるほど損傷していたとうこともあり、軽視していました。自力航海不能になった「ヨークタウン」は、ハワイに回航しますがわずか3日の突貫工事で修理して、ミッドウェイ海戦に間に合わせていたというのがアメリカ軍の怖さでもあります。

日本軍はミッドウェイ島攻略のために大艦隊を派遣します。その内訳は、空母4隻、戦艦11隻、その他艦艇多数の大艦隊となりました。アメリカ軍は、日本軍の暗号解読に成功していて、空母3隻と少数の護衛艦を派遣しています。映画でクエゼリン方面の日本軍潜水艦が米空母の位置を通報、戦艦大和は受信しますが空母赤城は受信できなかったシーンがあります。これは史実では戦艦大和へ乗り込んだ通信班が、米空母の呼び出し符号を傍受することで米空母の方位を測定したからです。しかし、敵に自艦隊の位置を探られないようにと無線を封鎖しており、赤城も同じく傍受に成功していると期待して、戦艦大和からの無線通知は見送られることになりました。

五十六に学ぶ

ミッドウェイ海戦 その1

昭和17年(1942年)6月5日07:00(現地時刻)頃、日本軍機動部隊から発進した攻撃隊はミッドウェイ島を空襲しました。山本五十六は南雲長官に命じていたことは、敵空母出現と、艦上攻撃機の半分は魚雷装備のまま待機するよう命じていました。しかし、ミッドウェイ島攻撃隊が迎撃戦闘機に阻まれて戦果を上げられなかったこともあり、南雲長官に二次攻撃を要請すると、南雲長官は魚雷から陸用爆弾への装備の転換を命じました。

07:28に敵を探していた索敵機より米空母発見の報が入ります。南雲長官は陸用爆弾(撃沈できないが空母甲板を破壊できる)のまま、準備が出来た機から順次発進させていきましたが、魚雷に装備をやり替え戦闘機の護衛も付けて体勢を整えてから発進するか、の選択に迫られることになりました。戦力の逐次投入していくか。集中投入していくか。南雲長官の決断は後者の集中投入でした。アメリカ軍の取った戦術は前者の逐次投入でした。ミッドウェイ島の陸上爆撃機、米空母の雷撃隊は戦闘機の護衛が不十分なままで日本空母に到達していき、零戦から次々と撃墜されていきました。

日本空母の甲板上では、ミッドウェイ島攻撃隊の収容と、陸用爆弾から艦船用爆弾・魚雷への再兵装転換と大騒ぎになっていました。米軍の急降下爆撃隊が日本機動部隊の上空に到達したのはまさにこのときです。そしてこの米軍の急降下爆撃隊が到達したこの時は、日本軍としては最悪のタイミングでした。米軍雷撃機を撃退するために低空に降りていた零戦は上空からの急降下爆撃を阻止することができずに、赤城・加賀・蒼龍に爆弾が命中していきます。そして兵装転換中の爆弾に、次々と誘爆を起こして大火災が発生しました。

この時に、飛龍は他の3隻と離れた位置にいたこともあり攻撃を免れることになりました。第二航空戦隊司令官山口多聞(阿部寛)は航空戦の指揮を執ることを宣言します。山口司令官は準備の整った隊を飛龍から順次発艦させて、米空母のヨークタウンを撃沈しました。

米空母を攻撃する場面で、有馬慶二(河原健二)の零戦が米空母の艦橋に突っ込むシーンがありますが、これは九七艦攻が同じように突入しようとして直前で撃墜された史実を元にしたものと思われます。飛龍もその後、米空母より攻撃を受けて撃沈されます。日本艦隊は空母すべての4隻を撃沈されました。飛龍が沈むときに、山口長官が形見を渡して艦と運命を共にしたのは史実です。(山口と飛龍の艦長加来止男は艦に残り艦と共にしています)

軍令部総長と連合艦隊司令長官

映画では、南雲忠一中将(中原丈雄)が、永野修身(伊武雅刀)から直接指示を受けて、山本長官と何から何まで対立しています。真珠湾攻撃やミッドウェー海戦において作戦を阻害した要因として描かれています。

真珠湾攻撃やミッドウェー海戦において、山本五十六は聯合艦隊司令長官です。南雲忠一は聯合艦隊隷下の第一航空艦隊司令官で、永野修身は軍令部総長でした。聯合艦隊は軍令部の指令によって作戦行動をとります。それは、編成上、永野総長が山本長官に指令を出します。そして山本長官が実際の戦闘部隊の指揮官、南雲司令官に指示を出すといことです。それは、軍令部総長の永野修身が艦隊司令官の南雲忠一に直接指示をする事はあり得ないはずです。しかし、山本長官と南雲司令官の間は、用兵上の意見の相違のほかにも、以前のしこりでもあるロンドン海軍軍縮条約派と艦隊派という思想の違いもあったために、折り合いそのものが良くなかったということは事実です。山本五十六は、自分とは馬が合わない人とは、全くと言っていいほど口をきくことすらなかったといいます。よって南雲忠一との間にも、意思疎通そのものも円滑ではなかったということは否定できません。

意思疎通もろくにできない間柄だったこともあり、実際に現場で指揮を取る南雲司令官に対して、山本長官から作戦の目的や意図が南雲司令官へとキチンと伝わっていなかった可能性はあります。これに関していうならば、聯合艦隊の最高責任者の立場にある山本長官が、個人的な感情を持ち込んでいたことに問題があるといえます。そしてその結果が、作戦の遂行に支障をきたしてしまった。その責任の所在は、山本長官にありその責めを負うべきといえます。

戦争を忘れない為に

真珠湾攻撃後に第二次攻撃をしなかったという事は、後に攻撃不徹底という批判を受けましたが、当初の真珠湾攻撃の目的はあくまで米海軍太平洋艦隊主力、それは当時の一般的な認識では主力戦艦の撃破が目的でした。それを達成した以上は、その場所への長居することは無用としたということも道理といえます。

ミッドウェー海戦では、敵機動部隊に対する警戒が甘かった事と、作戦目的が南雲司令官に充分に伝わっていなかった事があるため、作戦を立案した山本長官を始めとした聯合艦隊首脳部の責任と断言してもいいのではないでしょうか。曖昧な作戦目的と不確実な情報しか与えられずに、現場で指揮を執らざるをえなかった南雲司令官だけに対して作戦失敗の責任を負わせることに無理があります。南雲忠一中将ですが、その後中部太平洋方面艦隊司令官としてマリアナ諸島の防備を担当しましたが、昭和19年(1944年)6月15日に米軍がマリアナ諸島に侵攻し、南雲中将は孤立したサイパン島で陸戦の指揮を執った後の7月5日に、サイパン島北部の司令部壕にて自決しました。自決翌日には、守備する日本軍守備隊が玉砕しました。

2013 誰よりも戦争に反対した男、山本五十六