誰よりも戦争に反対した男、
山本五十六

アメリカとの国力の違いをよく知っていたために、誰よりも戦争に反対していた山本五十六。
真珠湾攻撃までの苦悩を辿る

戦争について考える
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三国同盟をむすんでから その2

真珠湾攻撃 その2

ハワイへと向かう第一航空艦隊司令長官は南雲忠一(中原丈雄)です。南雲長官は艦隊派だったこともあり、軍令部課長時代には山本五十六が高く評価していた条約派の堀悌吉を予備役に追いやっていたこともあったため、若干の確執があったと思われます。映画の中では、山本五十六の夕食の誘いを南雲長官が断るシーンなどでがあります。南雲長官と山本五十六との微妙な空気感が描かれています。

遂に運命の昭和16年(1941年)12月8日が訪れます。この日は日曜日で休日を狙った攻撃でもありました。早朝、南雲長官が率いる6隻の空母から発進した350機の日本軍機は、午前7時50分頃に真珠湾に到達しました。アメリカ軍機の迎撃は全くありませんでした。まさに攻撃は、完全に奇襲となりました。

九七式艦上攻撃機(九七艦攻)から投下された魚雷と800kg爆弾は、真珠湾に停泊中の戦艦群に次々と命中していきました。九九式艦上爆撃機(九九艦爆)はオアフ島の各飛行場を急降下して爆撃していき、米軍機は離陸できないまま破壊されていきました。わずかに離陸できた米軍機もありましたが、零式艦上戦闘機(零戦)によってそのほとんどが撃墜されました。

映画の中で、日本軍機同士は無線で通信していますが、その当時の航空機搭載用無線機はとても性能が悪く通信などできていませんでした。そのため実際は、翼を振ったり手信号や信号弾で連絡を取りあっていました。奇襲が成功すれば雷撃隊から、気付かれて強襲するときは急降下爆撃隊から攻撃する作戦でしたが、信号弾での意思疎通がうまくいかなかったこともあり、双方が同時に攻撃を開始する、という事態まで起きています。

攻撃の結果は、米軍は戦艦5隻が沈没、2隻が中大破、1隻が小破、その他10隻が沈没ないし損傷。航空機は479機が破壊されました。その一方で、日本軍空母は全て無傷で引き揚げ、航空機は29機が未帰還となりました。映画では零戦搭乗員の佐伯隆(磯井将大)が未帰還となっています。

米太平洋艦隊の戦艦群ですが、わずか数時間でそのほとんどの戦艦が行動不能となりました。そしてこの真珠湾での戦果は、日本中の国民を熱狂させることになりました。「志津」の常連客のダンサー神埼芳江(田中麗奈)が、真珠湾攻撃の戦果を報じる新聞を見て、大喜びするシーンがありますが、まさに当時の国民感情を代表させたものといえます。

現在、ハワイ諸島オアフ島の真珠湾には、戦艦アリゾナが撃沈された状態のまま保存されています。そしてその上に、追悼施設戦艦アリゾナ記念館が建てられています。付属している資料館には、日本軍は発射した不発のまま引き揚げられた愛甲魚雷が展示されています。また、ヒッカム空軍基地内には機銃掃射の弾痕が壁一面に遺されている司令部が残されています。ワイキキの米陸軍博物館には、撃墜された日本軍機の残骸がそのまま展示されています。

日本の国中が大戦果に沸いている中で、山本五十六はこの一見大成功にも見える真珠湾攻撃が実は失敗しているを理解していました。戦艦同士の海上戦は、過去のものとなりつつあり、空母がこれからの戦いの主役になることに気付いていたからです。そして、日本はこのときに撃ち洩らした米空母に悩まされることになります。ちなみにアメリカ軍が空母を真珠湾に配置していなかったのは、日本からの攻撃を受ける可能性を考えて退避していたというのが理由ではありません。たまたま訓練航海や航空機輸送任務に従事していたためでした。そして結果的には運命のいたずらともいえる偶然でした。

そしてこの攻撃作戦を山本五十六は宣戦布告が必ず行われるように念押しをしていました。そして、攻撃開始の30分前にアメリカ政府へ通達する予定でしたが、駐ワシントンD.C.日本大使館の井口貞夫元事官、奥村勝蔵一等書記官(2人ともその後外務事務次官を務める)たち翻訳とタイピングの準備に手間取ったこともあり、結果的にアメリカ政府に手渡しをしたのが、攻撃開始の約1時間後となってしまいました。そのために、「真珠湾攻撃(Attack on Pearl Harbor)は日本軍の騙し打ちである」としたアメリカのプロパガンダに使われることになりました。その当時は戦争前に宣戦布告をしないことも多くありましたが、この宣戦布告をしないで攻撃したことは、なるべく早期に講和へと持ち込みたい山本五十六にとっては不本意な結果となりました。

五十六に学ぶ

ミッドウェイ海戦へ・・

ミッドウェイ島攻略 その1

アメリカ軍は真珠湾攻撃後に攻撃を免れた空母機動部隊をもって中部太平洋方面で、一撃離脱の奇襲作戦を行っていきました。さらに昭和17年(1942年)4月18日には機動部隊を日本近海にまで近づけてドーリットル空襲を行います。このドーリットル空襲は、日本本土へ初めての空襲となり、大本営と日本国民に大きな衝撃を与えました。空母からは本来離陸できない陸軍爆撃機「B-25(ミッチェル)」を極限まで軽量化することによって、空母から16機を発進させて、航続距離の長さを生かして東京を爆撃してから中国方面へと退避したことです。

「敵機動部隊を残すということは、房総沖に敵の飛行場があるようなものだ」というおそれは、ドーリットル空襲によって現実のものとなりました。アメリカ軍からの本土への空襲を防いで、アメリカの戦意をなんとか失わせて講和へと持ち込むためには、米機動部隊を撃滅することが必要だと山本五十六は強く感じるようになります。

そのために立案されたのがミッドウェイ作戦です。ミッドウェイ島は、米太平洋艦隊の本拠地のハワイ諸島の目と鼻の先にあります。このミッドウェイ島をを占領することができれば、アメリカ軍が全力でミッドウェイ島を奪回しようとするのは明白でした。まさにそこで米空母を捉え撃滅しようとしたので作戦です。しかし、このミッドウェイ島作戦は既にアメリカ軍側に見破られていました。この時期の日本軍は、連戦連勝の戦局ということもあり気の緩みが生じていたと考えられます。真珠湾攻撃のときには、その計画は徹底的に秘匿されていましたが、ミッドウェイ攻略のときの作戦は、海軍基地のある呉の芸者さえも攻撃目標を知っていたと言われています。

当時のアメリカ軍は日本軍の暗号を全て解読できていたとは思えませんが、日本軍側の情報統制の甘さがアメリカ軍側の暗号解読につながったという点は否定できません。このことは映画の東京日報社内の会議で、真珠湾攻撃のときには海軍から全く情報を貰えなかったのに、ミッドウェイ島攻略のときは情報が色々入ってきた、というシーンによって描かれています。

戦争を忘れない為に
2013 誰よりも戦争に反対した男、山本五十六